〈秋分〉環境シンポジウム『今を生き抜く風土学 ~足もとから社会と心の平和を考える~』に参加して

秋分明けて昨日はとあるシンポジウムに参加していた。

『今を生き抜く風土学 ~足もとから社会と心の平和を考える~』というタイトルの環境シンポジウムで、杜の財団と風土再生学会が主催のもの。

杜の財団も風土再生学会もどちらも「大地の再生」の流れから発足したものでこのシンポジウムも大地の再生のなかまから声がけいただき参加の経緯となり、東京まで足を運んだ。その感想をや感じたことを記録として。

 

『風土』とゆう言葉の定義についてまず堀信行先生の講演の中で触れられ、奈良時代の「風土記」からすでにみられその後も和辻哲郎をはじめ研究がおこなわれ、広辞苑には「その土地固有の気候・地味など、自然条件。土地柄。特に住民の気質や文化に影響を及ぼす環境をいう。」とされている。

 

風土とゆう言葉はわたしにとってなにか情感に訴えるような部分もあって、憧れの対象のような印象があるのはなぜだろうと思っていたが、堀先生のお話は興味深かった。

堀先生が提唱されている風土の三角形とゆうイメージがあって、その三角形を形成するものには社会文化と自然生態と世界観形成に関わる要素が関係してそのバランスによって多様性が現れてくるというようなお話だった。

コーヒーの味を表現するときに酸味、苦味、コク、などの多角形で表現されているが、そのような感じで三角形のなかにまた各要素の三角形が入っていてそのバランスで風土の性質が見えてくるようなイメージだ。とおもう。

その要素のなかには「象徴」や「儀礼」も含まれていて、それは信仰やアニミズム的な要素を含むものだとゆいうこと。

この要素が入っていることは風景と風土の違いかとおもった。

風土とゆう概念がある種の信仰、いのりのようなものを内包しているからそこに憧れを抱き、どこか現代においては失われつつあるもので、そこにやわらかいニュアンスをもつものになるのだろう。

また同時に社会文化の要素に「技術の展開」や「人間集団の編成原理」とゆう項目があるのも興味深かった。

 

わたしはいまA HAMLETという村づくりに関わっているけれど、村というのもある種の風土のより小さく細分化された一部の単位なのではないかと思うと、風土を規定する要素は逆に村をつくるとゆうときに必要な条件の一部としてそれらは考えられるのかもしれないとおもった。

人が集まればただ村になるのかというとそうでもなさそうな感じもしていて、そこに技術の展開や世界観が共有されていくことが必要なのかも。

 

奄美大島の流木の話や、屋久島の岳参りのお話もあった。流木や山と人の関わりのが儀式になったり祈りになっていく。

土や、水のスピリット、そういうものへの畏敬の念も風土の一部になっていくのだろう。

火もそうだろうな。火を囲む時間の空気感というのはすこし特別な気がしている。

 

 

粟生田先生の講演はマイクロプラスチックが巡り巡って人の脳からも検出されているという報告から始まった。

わたしたちと地球はつながっている。

住民の気質や文化にまで影響を及ぼす環境を風土と呼ぶのだというけれど、このことを思えばそこに住む人に影響を及ぼさない環境なんてないのではないだろうか。

環境がわたしたちをつくっている。ワインの味わいがテロワールに左右されるように。

そして同時に私たちは環境を変えていくことができる。ワインもテロワールをかえるのだろうか。かえるのだろうな。

そんな全てが入れ子状にありフラクタルであるということも再確認として。

 

空気と水の動きを観察すること、そのやり方にならうということを大地の再生講座で矢野さんから学びこの視点に出会い、

それからずっとこのことはわたしの興味の中心にあると思う。

空気と水の動き。

ここに「と」というのがずっとはいっていたが、粟生田先生の講演を聞きながらまたちがう感触を得た。

液体であっても気体であってもそれは水であり、それはエネルギーとして捉えることができるのだということ。

そしてまたその水を動かしているのはエネルギー差であるという。

おそらくそこに空気と水となにととゆう分断もなく、すべてはエネルギーが循環し続ける方向に動いているのではないだろうか。

 

庭を作り、その地上も地下もまたどちらもを繋ぐ空気と水の循環に興味があったが、

最近はそこで人が集い、動くことにもとても興味を惹かれる。

そこで人がどう動くのか。つまりはそれもエネルギーの動きなだ。

形状によりその場のエネルギーの動きがどのように変化するのかということを見ている。

しかし人はそんなに素直ではないのでやはり空気や水の動きを観察することは純粋な形態をもとめることへの訓練として有効だとも思う。

 

 

タイトルの平和というのがどうつながってくるのかと思ったが、石ころも人も同じ命とゆうお話。

人間のなりたちも遠く辿れば宇宙の星屑に遡るわけでそこからつながる分子の連続はいまこの地球上のすべての生物まで繋がって生物も無生物も元を辿ればひとつ。

生物と無生物の間の違いはその細胞群を覆う外壁のようなものをもつかどうかということで、たとえば皮膚のことなんだろうけれど、その境界が自分と他者を隔てているという勘違いがすべての苦悩の根源であるのだから。石ころからピースフルネスを。

 

100年前に外国からもたれされたという土木の手法によって今大地は悲鳴をあげている。

それが悪というわけではないが雨が多く地形の起伏に富んだ日本の大地の環境に合っていなかったということはもう言ってもいいのかもしれない。

また100年前とゆう時代が資本主義がこれからという時代でまた戦争へと向かっていく時代でもあったこと、きっとわたしたちもその時の価値観のままではないわけだからそのときによかったやりかたは今にフィットしなくなってくるというのもそう驚くことではないだろう。

 

今の自分をよく感じて、ただ感じて、そしてどんどん自分になっていきたいと願う。

それぞれの生き物がそのものらしく循環の中で繋がっていけるような世界を見ていたい。

 

そこへ向かう変化は内側からであり、外側からであり、それらはいつもつながっているのだろう。

だからこそ今風土という視点で環境を考えていく必要があるということで、

風土について考えるとゆうことは、足もとから社会と心の平和を考えるとゆうことに繋がっていくということなのかな。

 

8時間に及ぶシンポジウムは情報量が多く感想というのか殴り書きのようになってきたので最終タイトルに着地したところで今日はここまでにする。

とても興味深いシンポジウムだった。